映画 エターナル・サンシャイン (原題:Eternal Sunshine of the Spotless Mind)

映画 エターナル・サンシャイン (原題:Eternal Sunshine of the Spotless Mind)

好きな映画をあげるとしたら、その一つはエターナル・サンシャイン (原題:Eternal Sunshine of the Spotless Mind)だ。

「映像の鬼才」という触れ込みでミシェル・ゴンドリー監督の名前を知った。「鬼才」というぐらいだから、一縷の隙もなく作り込まれた、見たこともないような映像世界を想像していた。

エターナル・サンシャインを観てみると、それはよく知った質感の素材が手作業で組み上げられたような印象で、良い意味で期待が大きく裏切られた。

映画の主人公ジョエルは、バレンタインの前に元彼女であるクレメンタインと仲直りをしようと、プレゼントを持って彼女の職場である書店を訪れる。クレメンタインはまるで他人のように振舞って、他の男と馴れなれしくしている。ジョエルは自分への当てつけだと思って気を悪くするのだけれど、実際は、クレメンタインはジョエルとの記憶を手術で除去して、すっかり忘れてしまっているのだ。それを知ったジョエルは、自分も同じ手術を受けることを決める。しかし、手術が始まって彼女と一緒にいた時間をたどっていくうちに、彼女を今も愛していると気がついて、必死に手術に抵抗しはじめる。

自分の中の他者というのは、ほとんどが記憶なのではないかと思う。実際にその人が存在するか、今どこにいて何をしているかという事実よりも、頭の中に残るその人の姿だとか、思い出されるエピソードが、自分にとってのその人になっている。子どもの頃からテレビで観ていたいかりや長介さんが亡くなったというニュースを大分前に見たのに、彼が元気にコントやドラマに出演されていた姿ばかりが頭に浮かんで、いまだに亡くなった実感がない。今でもその気になれば、どこかで長さんに会える気がしている。

そして別れた恋人は、多くの人の記憶の中で生き続けているのではないだろうか。実際に眼前に現れて言葉を交わすことがなくても、むしろないがゆえに、自分の中ではある日の姿で存在し続ける。

その記憶を取り去ってしまうという手術は、自分の世界からその人の存在を完全に葬ることだ。それはおそらく、とても悲しいことだ。嫌なところや許せないことがあったとしても、その人を葬りたいとはなかなか思わないだろう。それでも、自分の記憶に苦しめられることに耐えかねて、「あぁいっそのこと全て消し去ってしまえたら」と願ってしまうことがある。

そういった恋愛と記憶といったテーマが、独特の映像で表現されていることに感嘆した。映画の中で決して映像の技術やアイディアが主になるのではなく、それは、あくまで愛しい人の記憶とは何かを考えさせる手段だった。そんなこともできてしまうのか。やはり「映像の鬼才」の作品だと思った。