2015年8月20日、ついにサグラダ・ファミリアを訪れた。
カタルーニャが生んだ偉大な建築家アントニ・ガウディがその晩年をついやした贖罪教会。
1882年に始まった建設は、ガウディ没後100年である2016年の完成を目指して今も続いていた。
地下鉄2/5号線にサグラダ・ファミリア駅がある。
改札を出て階段を昇り、地上へ上がると、すでにサグラダ・ファミリアの真下にいた。
街中に突然現れる違和感のすごみ
その存在感に圧倒されて、息をのんだ。
ただ存在が、既にすばらしかった。
時間をかけて外観からゆっくり見ることにした。
歩きながらも「どうしてこんなものがつくれるのだろう」という疑問が頭から離れない。
造形、大きさ、数え切れない装飾とその関係性。
理解できないすごさを目の当たりにして、鳥肌が立った。
生誕のファサードから受難のファサードまで、彫刻を一つ一つ見て回る。
物語というのか、歴史というのか、これが信仰そのものなのだろうか。
荘厳な美しさにもかかわらず、語りかけてくるような彫刻。
言葉がわからなくても感覚で伝わる。
まるでサグラダ・ファミリアと会話をしているようだった。
サグラダ・ファミリア聖堂内部へ
聖堂内へ入ると、再び息をのみ、涙があふれてくる。
明るかった。
樹木のような柱、殉教のシンボルであるシュロの葉、そして抽象画家ジョアン・ヴィラ=グラウのステングラスを通してそそがれる美しい光に満ちた空間にいると、サグラダ・ファミリアに包まれているような気がした。
とても明るくて大きな森の中にいるようだったのだ。
キリスト教徒ではない上、異国からやってきた自分でもこんな感覚を味わえることに驚いた。
美術と建築の基本的な違いを改めて感じた。鑑賞するのではなく、包まれる。
それは、ガウディが徹底して既に自然の中にあるものから造形をつくったからだろうか。
不信心な私でさえ、こんな空間で祈る人生をおくれたならばどんなにいいだろうと思ってしまった。
どこの国の建築も、こんな風にあたたかい光で訪問者を包んでくれたらいいのに。
異国から訪れた自分が思ったこと
ガウディは間違いなく天才だと思った。
自分には、なぜ?どうやって?がわからないものを、すごい!と感じる傾向があるからだ。
なぜこんなものをつくりだすことができたのか、最後まで全くわからなかった。
そして、不信心な上異国から来たはずの私も、これは絶対につくり続け、完成させなければならないと直感的に思った。
にもかかわらず、いつまでも完成しないでほしいという願望も湧いてくる。
この空前の建築が「未完」であることも、サグラダ・ファミリアを神秘的なものにして、人々を魅了している事を、事前に本を読んで知ってはいた。
実際に訪れると、そのすばらしさに感嘆しながら建設中の場面に出くわすことで、この伝説的な教会がつくられる歴史を自分も数時間目の当たりにし、立ち会えた喜びを感じる。
また、大きくなり続けてほしい、このままどこまで大きくなるのだろう、という好奇心もある。
宗教や民族を超えてサグラダ・ファミリアのすばらしさを感じてしまった私は、多くの人に、歴史に立ち会うその稀有な喜びを感じてほしいという思ってしまう。
大変な混み合いなので、チケットは事前にインターネットで購入する事をお勧めする。
The Sagrada Familia
http://www.sagradafamilia.org/en/