この傾いた建物、気になりませんか?
坂道に立つ”バークレイの家”の中はタルトゥ(Tartu)美術館。
ドアのガラスを拭き上げている女性に「Tele!」とエストニア語でこんにちはの挨拶をすると、笑顔で中へ案内してくれた。
バルトの国々を旅行しているうちに、田園風景や美しい旧市街も見慣れてきて、美術館に立ち寄ることが多くなった。エストニアの芸術家について前知識がなかった私も、1枚1まいの絵を不思議なほど興味を持って見た。階を上がるにつれて作品の時代が現代へ移って行くのが、旧市街に入り浸っていた私には余計に新鮮だったのかもしれない。
3階の現代作品の中に、バレリーナのピンクのチュチュを使った作品があったのをよく覚えている。
この旅行で最初に、そして最も熱く恋をしてしまったのはKarl Pärsimägiだ。どんなに離れがたくでも当時は図録等はなく、数種類のポストカードしかなかった。そのつれない態度がまたたまらなかった。そうされると人は追いかけたくなるのだと学んだ。
そうやってタルトゥ美術館で恋に落ちて、KUMU美術館で再会したときの喜びと言ったらない。
left: Still-life with a pink shade. 1936
Karl Pärsimägi(1902-1942)
タルトゥ(Tartu)美術館
right: Japanese Woman. 1939
Karl Pärsimägi(1902-1942)
KUMU美術館
改めて彼の生年(1902 – 1942)を書いていると、その短かさと時期が気になる。明るい色彩に、踊るような筆の画風は人生の春を思わせる。その絵からは一見想像できないけれど、彼の生涯は当時の世界情勢から切り離して語ることができない。
調べて最初にわかったのは、彼はこのポストカードの絵を描いた3年後、Auschwitzで命を奪われていたこと。
驚いた。
彼の創作期は正にラトヴィアの独立戦争、第二次世界大戦と同時期である。謙虚でシャイな青年だったけれど、10代という若い時期に独立戦争に参加。その後フランスに居を移した後も、フランスのレジスタンスで活動していたとされていて、1941年9月に逮捕、翌年の7月27日に処刑された。
また、彼の生涯唯一のLove storyと言われている(唯一というのを含めて本当かはわからないが)のは、パリのGrand Chaumière Academyで出会ったユダヤ人の女の子との恋。彼女をファシストから守ろうとしたことで、自分の命を奪われることになったと推測されている。
彼の絵の中の光を見ると、胸がつまる。
混沌とした世界情勢の真っ只中にいて、少なくとも私が持っているポストカードの絵を描いているとき、亡くなる3年前(逮捕の2年前)までにも後世に残るほど美しい制作をしていた。
戦争を経験してなお光を見ていたのに。
最期を強制収容所で、人生を奪われてしまったんだよ。
それまで知ることのなかった画家たちとの出会うことができて、せめて気に入ったポストカードを買って帰ってきた。
袋に印刷されているのは昔の風景で「この川が今はあれで、あそこがああだった」と売店のおばあさんが教えてくれた、ような気がした。
タルトゥ(Tartu)美術館とはうってかわって、首都タリン(Talin)にあるクム(KUMU)美術館はかなり近代的な建物の美術館だった。
歴史的な絵画から、現代美術までが豊富に展示されていた。
リトアニアから旅をスタートした私は、ラトヴィア、エストニア、フィンランドと、
都会へ向かって時間旅行をしているような感覚だった。
朝思い立ってタリンからフィンランド湾を渡って行ったKIASMA(ヘルシンキ近代美術館)は、とても都会的でもう手に負えなかったなぁ。
タルトゥは400年近い歴史があるタルトゥ大学を要する学問都市で、
Karl Pärsimägiもまたエストニアの南部からTartu Pallas Art Schoolに絵を学びにきた。
1920年にエストニアがソヴィエト・ロシアからの独立戦争に勝利した際には、その平和条約はタルトゥで結ばれた。
首都はタリンだけれど、タルトゥもまたエストニアの特別な街なのだろう。
参考: