今年も夏がくることと、年をとること

紫陽花
意外かもしれないけれど、年をとることを憂鬱に感じたことはない。

10代の頃は20代と間違われ、20代になれば30代に間違われてきたせいか、年を重ねるごとに、なんだかしっくりきているような気さえしてきた。

紫陽花が咲く梅雨に生まれた。

自分の性格からして、じめじめした季節に生まれたことはうなづけた。

ひまわりが太陽に向かって元気よく咲く季節は、好きだけれど、自分らしくはない。

秋の澄んだ空気のような思慮深さもない。ましてや冬の寒さを彷彿とさせる冷静さなど。

子どもの頃から、しとしと降る雨が好きで、雨上がりの匂いも好きだ。

一言でいい表せなかったこの匂いを「雨上がりの土の虹色の匂い」と表現する詩を6才のときに学校で読み、そうそうそれそれ、と思ったのをよく覚えている。

青い紫陽花が雨のなか咲いているのは、なんていい組み合わせだろうと毎年感心する。

今年も紫陽花は姿を消していく。

みんな夏の到来に夢中で、そのことを気にする人はあまりいないようだ。

私は、また一つを年をとったのだ。決して憂鬱ではないが、最近になって少し残念に思うことはでてきた。

年を重ねるうちに嫌が応にも見聞きすることは増え、知っていることが増える。それで自分が賢くなったような気がすることがある。

そうしてみると、若いということは無知であるということで、だからこそできたことがたくさんあったのだなと今になると思う。

では戻りたいかというとそうではない。

賢くなった気がするのは、やはり錯覚だ。

実際には自分は簡単にはかわらない。

一つものを知った気がしても、想像以上にものごとは移り変わっていく。

また、世の中は数え切れない知らないことで溢れている。

そのことは、忘れないでいたい。

かわらない、かわれない自分と一緒に年をとってくれる友人と、海へ行って、花火を見よう。